大分県豊後大野市から気ままなblog

大分県の豊後大野市、そこは阿蘇山大噴火の影響が残り、澄んだ川と四方を山に囲まれた小さな故郷。そんな故郷<and so on>で国指定難病CIDPを患う爺さんがお届けするブログ
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三重町にも映画館があったんで
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    三重町映画館跡

     

    駅前にあるスーパーの駐車場、ここに竹の加工所がありました。

    「三美(さんみ)」だったかな、、、社名の漢字も三つに美しいで「三美」だったと思います。

    小学校に通学するとき、工場の脇を通っていました。

     

    ちなみに竹の加工所を取り壊して「三美ボウル」というボウリング場を造ったんです、私のお袋がボウリングに嵌まってマイシューズを持ってました(笑)

     

    さて映画館なんですが、三重町には二箇所あったのかな。。。

    その一箇所が、スーパー駐車場奥に見える飲み屋街にあったんです。

     

    でも、今から50年ほど前、私が小学校高学年の時に火事で焼失。

    あのときの火事はすごかったんですよぉ、、、三重町で一番大きい火災じゃなかったかな(火事に大きい小さいはありませんが)。

    真っ黒い煙が空高く上がっているのを今でも覚えています。

     

    三重町映画館跡

     

    そしてもう一箇所がここ、佐藤産婦人科の建物がある場所に映画館がありました。

    駅前の映画館より少し小さい規模の映画館だったような。。。

     

    入口の上に俳優のポスター、写真ではなくて絵で描いてるポスターが飾られていました。

    こっちの映画館が閉館された理由は知りません、いつのまにかなくなってたって感じですね。

     

    どうですか?

    私より上の年齢の方は鮮明に覚えているんじゃないですか?

     

    三重町に映画館とボウリング場があったこと、覚えてて欲しいなぁ。。。

     

    今日はここまで、それではご機嫌よう♪

    | 小鮒 | 三重町 | 05:25 | comments(21) | trackbacks(0) |
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    映画館のあった時代。ー それは三重町の古き良き時代であったかもしれませんね。

    三美の傍の映画館は<宝塚>といっていました。そこで映画のタイトルは忘れましたが、

    乃木大将の二百三高地を扱った作品を観た記憶があります。それから、佐藤産婦人科病院の

    ところにあった<三映館>では市川右太衛門の「三日月天狗」、山城新伍の「風小僧」、

    そして、無法松の一生や高田浩吉の股旅・道中ものを観ましたね。チャンバラの全盛期

    だったと思いますよ。そのあとテレビ時代が到来して「琴姫七変化」「白馬童子」

    さらには「隠密剣士」と続いてゆくわけです。映画を観たあとは一六の饅頭を買ってもらって

    家で食べていました。一六饅頭はまだ今でも現役で営業しているようで、相当な老舗だと

    思います。あの頃は三重町の駅前通りにはたくさんの人が歩いていて、道ゆく人たちの話し声や

    笑い声があちこちから聞こえて来ましたね。みんな貧しかったけど、元気のよかった時代でした。
    | 内山観音・炭焼小五郎 | 2019/01/23 4:36 AM |
    内山観音・炭焼小五郎様いつもコメントありがとうございます。

    三映館でしたっけ、、、こっちの映画館は入ったことがありません。

    「古き良き時代」、そうですね、そんな時代だったような気がします。

    駅前通りの賑わいは覚えています、平成生まれの若い人には想像できないでしょうね。
    | 小鮒 | 2019/01/23 7:19 AM |
    小鮒様、アップお疲れ様でした。

    サンミボウルは私も知っていますが、映画館が2つもあったんですね!

    サンミボウルは、こわーい先輩たちがたくさんいて、怖かったイメージがありますね。ちょっと薄暗くて…。

    最近、母親から映画館があったと話を聞いていたのですが、場所も定かではなく…。

    三重のどこかで映画館復活しませんかねぇ。
    | 虹潤 | 2019/01/23 8:17 AM |
    虹潤様いつもコメントありがとうございます。

    そうなんですよ、映画館が二つもあったなんて知っている方が少なくなってます(笑)

    私が行ってた頃のボウリング場は家族連れが多かったんですよ、一番ブームの頃でしたから。

    映画館の経営は難しいようですね。
    そうだなぁ、宝くじが当たったら私が経営してもいいかなぁ。。。

    その前に宝くじを買わなきゃ(笑)
    | 小鮒 | 2019/01/23 8:41 AM |
    そうです。三重映画館の略称だろうと思われますが、私の生まれる前からすでにあったようです。

    そこに三波春夫が来たことがあります。それを観に行った近所のおばちゃんたちが、

    三波春夫は色が白く、顔も美しかったが背がちょっと低かったなー。と言っていたのを憶えて

    います。また、三映館だったかどうかはわかりませんが「月の法善寺横町」の藤島桓夫や

    「はたちの詩集」の白根一男も来たと思います。今はエイトピアという立派な文化施設があり

    ますが、昔は映画館などで歌のコンサートをやっていました。映画館がなくなると、体育館などを

    使っていましたね。昭和41年頃だったと思いますが、三中の体育館に都はるみも来ましたよ。

    映画館ー体育館ー文化施設という流れですよね。映画の盛んな頃には三重町には「人斬り松ちゃん」

    と呼ばれていた人がいて、三重町での興行は彼がすべて取り仕切っていたのではないかな?

    三重町の駅前通りにディ−プな奥豊後訛りが何の気兼ねもなく活発に飛び交っていた頃の

    お話です。
    | 内山観音・炭焼小五郎 | 2019/01/23 9:15 AM |
    内山観音・炭焼小五郎様いつもコメントありがとうございます。

    都はるみが三重中学に来たことは記憶してます、41年でしたか。。。
    | 小鮒 | 2019/01/23 11:16 AM |
    そうですね。昭和41年で間違いないと思います。

    彼女の第19作目の「東京渡り鳥」がリリースされたのが昭和41年の9月20日ですから、

    三重町にやって来たのはそのすぐ後のことで、都はるみが18歳のときだと思います。

    何しろあの時代は時代が時代ですし田舎のことですから、客の入りはあまり芳しくなかった

    ようです。

    | 内山観音・炭焼小五郎 | 2019/01/23 12:28 PM |
    内山観音・炭焼小五郎様いつもコメントありがとうございます。

    都はるみが18歳ですか、、、彼女も若かったんだぁ(笑)
    | 小鮒 | 2019/01/23 1:07 PM |
    お返事ありがとうございます。


    サンミボウルもそんな時があったんですね!
    宝くじ当たったら、私も三重でなにか事業を始めようかなぁ…。
    | 虹潤 | 2019/01/23 7:37 PM |
    虹潤様いつもコメントありがとうございます。

    お互い宝くじを当てる前に購入しましょう(笑)
    そして当選したら、、、夢ですね☆爆笑☆
    | 小鮒 | 2019/01/24 7:22 AM |
    暦の上では「啓蟄」を過ぎてしまいましたが、今日の午前中の大気はまだまだ冷たかったですね。

    私の頭の中に三重町には映画館が3軒あったという記憶があって、その映画館には

    行ったことがなかったので、どうしてもはっきりと思い出すことができませんでしたが、

    やはりその記憶は確かなものであったようです。三重町には映画館は「宝塚」「三映館」の

    ほかに、もう1軒「東映」という映画館がありました。場所ははっきり憶えていませんが、

    三重川と三国街道(326号線)に挟まれた区域(市場5区と6区)です。

    いまその区域には三重モータース(6区)やトキハ・インダストリー(5区)などの店舗がありますが、

    その真ん中辺りだったと思います。
    | 内山観音・炭焼小五郎 | 2019/03/08 1:20 AM |
    内山観音・炭焼小五郎様いつもコメントありがとうございます。

    三軒目の映画館は記憶にありません、仰る場所にあったのであれば私のテリトリーから外れています(笑)
    | 小鮒 | 2019/03/08 7:36 AM |
    そうでしょうね。あまりにも昔のことですから。私も三重町に映画館が3軒あったのは

    かすかに憶えていたのですが、その場所がはっきりしませんでした。それでスッキリしなかったので、

    友人に問い合わせたところ、やはり3軒あったことが確定しました。その映画館の名前を「東映」と

    聞いてやっぱりと思いました。私は「東映」では映画を観たことがなかったので記憶が薄れて

    いました。その友人は「東映」で映画を観ていましたのではっきり憶えていました。

    映画のタイトルまで憶えていました。

    また、当時は大原のつつじ公園の辺り?に広告塔のようなものがあってスピーカーから

    映画の予告放送が女性の声で流れていましたよ。なつかしいですね。


    | 内山観音・炭焼小五郎 | 2019/03/08 8:37 AM |
    内山観音・炭焼小五郎様いつもコメントありがとうございます。

    ツツジ公園に広告塔?幼稚園からのテリトリーでしたが記憶にありません。

    っていうか興味がなかったのかな。
    | 小鮒 | 2019/03/08 4:42 PM |
    そうですね。私も実際に見ていませんので、何とも言えませんが、大原のツツジ公園の辺りから、

    映画の予告放送が流れていたのをよく聞いていました。もしかしたら、街中の映画館の広告塔から

    発せられた音波がツツジ公園の小高い丘の斜面にぶつかり、その反射音がツツジ公園のほうから

    発せられた音のように錯覚したものかもしれませんが、50年以上前のことなので何とも確たることは

    言えません。また、「東映」の場所がもうひとつ曖昧なので、いろいろコンタクトをとってみて、

    後日お知らせしたいと思います。



    | 内山観音・炭焼小五郎 | 2019/03/08 11:23 PM |
    新しい情報が入りましたので報告いたします。(箇条書き)


    「三栄館」について

    (1)三映館の漢字は「三栄館」が正しい。

    (2)(1)の場合、「三」は三重町の「三」ではなく、「市場三区」の「三」である。

    (3)(1)の場合、「栄」には市場三区の商店街や住人が栄えるようにという意味が込められている。

    (4)三栄館は市場三区の人たちが資金面で中心になって建てた映画館である。

    (5)三栄館は昭和37、8年頃に閉館した。


    「東映」について

    (1)市場6区にあった。(5区と6区の境目辺りで宝塚とそれほど離れていない。

    現在のところ、そこまでしかわからない。

    (2)昭和35、6年ごろ閉館した。

    (3)「東映」に関しては、この映画館で大村文武主演の月光仮面シリーズ(1958〜1959)の

    映画を観たことがあるという証言あり。なお、大村文武は1956年の東映ニューフェイスである。

    また、証言者によれば、東映の3角マークのロゴが映画館に備え付けられていたことも記憶あり。


    「宝塚」について

    「宝塚」は昭和40年代まで存続した。したがって、いちばん記憶している人も多いのでは。

    以上のことから、小鮒さんは「東映」「三栄館」の思い出はあまりないのではないかと

    思います。また、何か判り次第報告いたします。
    | 内山観音・炭焼小五郎 | 2019/03/09 12:02 PM |
    「宝塚」は何度か映画館の名称が変わって、最終的に宝塚という名称に落ち着いたという証言あり。
    | 内山観音・炭焼小五郎 | 2019/03/09 12:10 PM |
    新しい情報が入りましたので報告いたします。三重町にあった三軒目の映画館「東映」の

    場所が判明しました。河村酒店、居酒屋玄海、かくれんぼ、柳井豆腐店、成瀬酒店の前を

    通っている道を日向街道といいますが、この通り沿いにありました。この日向街道と三重

    郵便局の脇を通っている道が交差したところに「かくれんぼ」というレストランがありますが、

    そのレストランから日向街道を河村酒店の方向に逆戻りしたところに「パークホームひろ」

    という建物があります。福島病院の裏手になります。その辺りに映画館「東映」があったようです。
    | 内山観音・炭焼小五郎 | 2019/03/24 3:12 PM |
    新しい情報が入りましたので報告いたします。

    「ツツジ公園の方から聞こえてくる映画の予告放送の女性の声」の件ですが、やはり、それは反射音

    ではなく、ツツジ公園のスピーカーから流れていたことが判明しました。ただそのスピーカーが

    どの辺りに備え付けられていたかは現在のところ見た者はいません。また、それは映画予告の

    放送のためだけではなく、当時はよく少年院の脱走がありましたので、戸締りには注意するように

    といったような放送も流れていたという証言あり。いろいろな放送が流れていたということです。
    | 内山観音・炭焼小五郎 | 2019/03/24 4:06 PM |
    内山観音・炭焼小五郎様いつもコメントありがとうございます。

    少年院の脱走放送は記憶にあります、ただどこにスピーカーがあったかは記憶にありませんが。。。
    | 小鮒 | 2019/03/24 4:32 PM |
    新しい情報が入りましたので、報告いたします。

    福島病院は今の先生のお父さんがやっておられた頃は今の病院の敷地面積の5分の1くらいの規模の

    現在の病院に較べると小さな病院で「東映」の傍にあったようです。そして今の病院の正門の辺りは

    昔は皆畑だったようです。
    | 内山観音・炭焼小五郎 | 2019/03/25 5:04 AM |









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