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二日目は萩市にある反射炉から見学する予定でした、でも移動するときに「瑠璃光寺五重塔」の看板が見えたので立ち寄ってみることにしました。
この瑠璃光寺五重塔は、前夜配膳係の方から聞いた観光スポットだったからです。
「せっかくじゃけん寄っちみろうか」と上さんに話すと「行っちみようへ」と快諾(笑)
観光バスが駐車場に1台停まっていました、まだ九時前の時間ですよ。
そして境内に入って納得、、、素晴らしい!
とにかく、その姿が素晴らしい!観光コースに選ばれていることに納得です。。。
室町時代、大内氏25代の大内義弘が現在の場所に香積寺を建立したが、義弘は応永6年(1399年)に応永の乱を起こし
足利義満に敗れて戦死する。
義弘の弟である26代大内盛見が兄を弔うためここに五重塔の建設を開始したが、盛見自身も九州の少弐氏・大友氏との戦いで
永享3年(1431年)に戦死する。
五重塔はその後嘉吉2年(1442年)頃に完成した。
屋外にある五重塔としては日本で10番目に古く、京都の醍醐寺・奈良の法隆寺のものとならび日本三名塔の一つに数えられることもある。
このような歴史をもつ五重塔です、これを見ずに山口県を後にしたらきっと後悔していたでしょうね(^o^;
そして、もう一つ素晴らしいのですが庭園です、きれいに管理されていて気持ちいい!
それなのに無料ですよ、無料で見学できるんです。
それから萩市に移動、初めて見る反射炉です。
アヘン戦争や黒船来航によって海防強化の必要性を感じた長州藩(萩藩)は、
西洋式の鉄製大砲を鋳造するためにな金属溶解炉として反射炉の導入を計画した。
1855年(安政2年)7月、反射炉の操業で先行していた佐賀藩に藩士山田宇右衛門らを派遣した。
山田らは鉄製大砲の鋳造法習得を目指していたが、佐賀藩は製砲掛の不在などを理由に拒否した。
そこで翌8月、今度は小沢忠右衛門(おざわちゅうえもん)が改めて佐賀藩に派遣され、長州藩で発明された砲架である「砲架旋風台(ほうかせんぷうだい)」の模型を持参で交渉。
反射炉の見学を許可されたため、そのスケッチを作成して持ち帰ることに成功した。
同年11月には村岡伊右衛門(むらおかいえもん)が御用掛に命じられた。
1856年(安政3年)に鉄製大砲の鋳造に取り組み始めており、反射炉の「雛形(=試験炉)」が操業されていた記録がある。
従来は、萩反射炉は1858年(安政5年)の築造と言われていたが、本格的な操業(鉄製大砲の鋳造)の記録が無いことから、
萩反射炉は1856年に建築・使用された試験炉であり、本式の反射炉(実用炉)は築造されなかったとの説が有力視されている。
現在残っている遺構は煙突にあたる部分で、高さ10.5mの安山岩積み(上方一部レンガ積み)です。
オランダの原書によると、反射炉の高さは16mですから、約7割程度の規模のものになります。
また、萩藩の記録で確認できるのは、安政3年(1856)の一時期に試験炉が操業されたということだけであることから、
萩反射炉はこのスケッチをもとに設計・築造された試験炉であると考えられています。
すごいですよねぇ、、、スケッチをもとに設計して築造したんですよ。
長州藩は何としても溶解炉を作りたかった、その思いがこの反射炉に込められていたんですね。
今日はここまで、それではご機嫌よう♪