大分県豊後大野市から気ままなblog

大分県の豊後大野市、そこは阿蘇山大噴火の影響が残り、澄んだ川と四方を山に囲まれた小さな故郷。そんな故郷<and so on>で国指定難病CIDPを患う爺さんがお届けするブログ
中尾区木造如来形立像
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    JUGEMテーマ:大分県豊後大野市
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    中尾五輪塔の場所から更に先に進むと、石段を見つけました。
    ただ雨が激しく降っているので、ここでも迷ったのですが、今度はカメラ片手に傘をさして行くことに。

    石段を登ると樹木に光は遮られ、雨天でもあったので暗い。
    上りついた正面にはお堂があって、右側には倒れている庚申塔、そして左側には素掘りの井戸。
    この素掘りの井戸が気持ち悪かった、さすがの私も中を覗くことは出来ませんでした(=_=;)

    お堂の戸には鍵がかかっていなかったので、戸を開けると写真の立像がありました。

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    像高165.5cm、彫眼彩色(ちょうがんさいしき)像で檜材の一木造り(いちぼくづくり)である。
    作風より平安時代後期の作とみられ、木彫仏では市内でも最古級に属すものである。
    現在左手に薬壷(やっこ)を持っているため薬師如来像といわれていたが、明治時代に修理された際の後補であると考えられ、
    本来は釈迦如来像とみられる。
    その他両足先、後背等も後補である。
    以前は旧大楽寺の本尊であり、江戸時代に現大分市稙田大楽寺移転の際現在地に安置されたと伝えられている。

    いやいや文化財に出会えるのは非常に有り難いのですが、素掘りの井戸はいけません(><;)
    怪談話を思い出してしまって、撮影していても落ち着かず急いで車に戻りました(笑)

    普段は、なるべくフラッシュを使わないように心がけているのですが、今回だけは早く撮影を済ませて車に戻りたかったので
    「何でもあり」の撮影になりましたことを深くお詫びいたします_(_ _)_

    今日はここまで、それではご機嫌よう♪
    | 小鮒 | 史跡 | 06:02 | comments(0) | trackbacks(0) |
    中尾五輪塔
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      JUGEMテーマ:大分県豊後大野市
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      大分県の梅雨明け、それは豊後大野市も梅雨が明けたことになります。梅雨が明けた途端、猛暑です(苦笑

      さて、再び久田地区です、この日は激しい雨が降っており(自宅付近は曇りで雨は降っていませんでした)、
      この写真は後日、雨が降っていない時に撮影した高寺地区の風景です。

      7月26日にご紹介した石幢は、ここから100メートルほど白山側に進んで右折した道路沿いにあったものです。

      今回は、撮影している場所の道を進みました。

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      しばらく進むと、このような風景の場所に。写真ではわかりませんが、激しい雨が降っています。
      見上げた場所には五輪塔の姿が、、、でも一番先に思ったのは「上るのはいいけど下る時には滑り落ちそうだな」でした(苦笑
      笹が雨に濡れるとすごく滑りやすくなるのは子供の頃に経験済みなので、滑り落ちた時のカメラが気になり、
      天気のいい時に出直そうかとも思ったのですが、「えーい!ここまで来ているんだから行っちまえ!」と覚悟を決めました(笑)

      車を少し広い場所に停めて、軽自動車に積んであった上さんの「麦わら帽子」をかぶって出陣!

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      県指定の有形文化財「中尾五輪塔」です、大きさは以前ご紹介した「小野五輪塔」といい勝負しています。

      総高255cmの巨大な五輪塔で、水輪には金剛界四仏の種子が薬研彫り(やげんぼり)されている。
      地輪に銘文があり、表面の剥落等で判読しにくいが、南北朝時代の康暦3(1381)年造立と十阿という石工名が確認できる。

      小野五輪塔より少し(35センチ)大きいものです、っていうことは私が確認している五輪塔の中では最大のものです。

      土地の人は、「虎御前」「腹太」などと呼んでいて、中世の五輪塔では県下最大のものになるそうです。
      この付近に、豊後国守護第四代「大友親時」の菩提寺と推定される大楽寺跡があることから、大友親時の墓とも言われている。
      立塔の場所は、「殿様道」と呼ばれている旧道になるそうです。

      ところで写真を撮り終えて下る時、予定通りと言いましょうか、想像の通りと言いましょうか、見事に滑り落ちました(苦笑
      ただ、私のすごいところは、滑り落ちていてもカメラをもっていた右手は上にあげカメラを守り切ったところです(笑)

      帰って半パンを見ますと、お尻が見事に泥と草の汁で汚れていまして、洗濯しましたが落ちません(><;)

      ま、カメラは無事だったのですから良しとしましょう(笑)

      今日はここまで、それではご機嫌よう♪
      | 小鮒 | 史跡 | 06:18 | comments(0) | trackbacks(0) |
      森迫回春庵墓地
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        JUGEMテーマ:豊後大野市三重町


        森迫回春庵墓地

        昨日からの続きです。
        ここは三重町森迫地区、昨日ご紹介しました森迫石幢のある公民館の裏手高台に回春庵墓地があります。

        森迫回春庵墓地

        ここ森迫地区は大友時代の森迫氏ゆかりの史跡や文化財などが多いところです。
        森迫氏の出自は武蔵国猪股荘、大友能直の豊後国下向に随伴したと伝わっているそうですが、初代当主・大友能直の時代に
        大友家は豊後・筑後守護職と鎮西奉行職に輔任されたものの、能直と第2代当主・親秀の時代には豊後に下向したという記録は
        残されていないので明言は出来ません。
        森迫鎮富の時には大友氏の奉行として活躍、大友氏の信頼は厚かったそうです。鎮富の嫡子「三十郎親正」は天文20年(1551)8月、
        大友宗麟の肥後国菊池郡合志城攻めに参戦、子息の親正が合志常陸守の郎黨(家來)山本三十郎に討たれ17歳で戦死しています。

        合志常陸守が親正の死体を見れば、冑の中に「命より名こそ惜しけれ武士の道にかふべき道しなければ」の一首の歌があり、
        常陸守は天晴れなる武士かなと感じ、死骸を大友の陣所に送ったと言われています。

        森迫回春庵墓地

        そして現在、親正の残した歌は愛国百人一首に残され、今も語り継がれています。

        ところで皆様の思い描く「大友宗麟」のイメージってどんな感じでしょうか?
        私は今回、森迫氏のことを調べる前までは九州一の大名でしたから「名将」、宗教信仰から見れば「斬新な大名」、
        そんなイメージをもっていました。
        詳しいことは省略しますが、そのイメージは見事に崩れ去りました(笑)
        興味をもたれた方は一度「大友宗麟」を調べてみると面白いかも知れません(笑)

        さて、話を戻しましょうか、回春庵は森迫氏の菩提寺と推定され、正面の石段に当時の面影を残しています。

        森迫回春庵墓地

        過去にタイムスリップして想像する自分がいます、大友氏に忠誠の限りを尽くし散っていった森迫氏親子。
        そんな歴史の上に私たちの現在があります、歴史を少しだけ学び(笑)そして想像するって面白いですね。


        今日はここまで、それではご機嫌よう♪

        | 小鮒 | 史跡 | 05:44 | comments(8) | trackbacks(0) |
        森迫石幢
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          JUGEMテーマ:大分県豊後大野市
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          三重町井迫、森迫公民館の敷地にある石幢です。
          本来は公民館下の道路脇にあったようですが、道路の拡張が原因かどうかは知りませんが現在は公民館の敷地内に移転されています。

          この石幢の撮影をきっかけにして色々と調べてみますと、大友家との関わりがわかってきまして、その一部を明日ご紹介させていただきます。

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          さて、この石幢ですが、総高185cm、宝珠を欠失しています。
          基礎・塔身・笠は平面は円形で、龕部は八角で六地蔵と十王像二体を薄肉彫しています。
          幢身の銘文により天正6年に日向(宮崎県)耳川で戦死した森迫鎮富の供養のため、その娘が安土桃山時代の天正9年(1581)に造立したものだそうです。

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          この森迫という地区は、大友家と深い関わりがあったようです。
          そして、戦死した森迫鎮富、大友宗麟が日向侵攻したための戦死なのですが、大友宗麟の日向侵攻はキリシタン教国を
          日向に建設することが最大の目的であって、薩摩・大隅への侵攻の意図はなかったと言われています(増訂豊後大友氏の研究より)。

          島津氏が大友軍を日向高城に破った合戦を俗に「耳川の戦い」と称していますが、これも諸説あるようで
          耳川は主戦場となった高城周辺から直線距離で20キロ以上も離れていて、島津方の最後の追撃戦が行われた舞台だったにすぎない、
          だから両軍が対峙して交戦した川の名をとって「小丸川(現在の高城川)の戦い」もしくは合戦の発端となった
          城郭の名をとって「高城合戦」と呼ぶべきである、このように解説する方もいるようです。

          この三重町の森迫地区の誰がどのように関わっていたのかを明日、少しだけご紹介させていただきます。

          今日はここまで、それではご機嫌よう♪
          | 小鮒 | 史跡 | 06:00 | comments(0) | trackbacks(0) |
          豊後大野市最古「石造多層塔」
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            JUGEMテーマ:大分県豊後大野市
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            豊後大野市三重町、市邊田八幡社に豊後大野市最古の紀年名をもつ史跡が写真の石造多層塔です。

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            銘文には「舎利塔」とありますが、多層塔の軸部にあたるものと思われるそうで、高さ59cm、幅56cmで4面に高さ34cmの仏龕をつくり、
            東面に阿弥陀如来、南面に釈迦如来、西面に薬師如来、北面に菩薩の四方仏の坐像を半陽刻しています。
            銘文により鎌倉時代の文永2年(1265)の造立で、市内最古の紀年名を持つ石造物です。

            そして、その横にあったのが。。。

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            石造宝塔です、相輪を欠失し別の宝珠を置いており、相輪を除く総高113cm。
            基礎の4面に各挟間があって、塔身には金剛界四仏の種子を薬研彫りしています。
            銘文により南北朝時代の康永4年(1345)の造立だそうです。

            市邊田八幡社の史跡は以前にもブログでご紹介しまししたが、全く史跡の内容も知らないまま紹介していました。
            ましてや豊後大野市最古の紀年名をもつ史跡だったなんて、何も知らずにご紹介したことが恥ずかしい(=_=;)

            現在は何も調べないで史跡をご紹介することのないようにしております、その繰り返しが私の勉強にもなっていますので一石二鳥なのですが。

            今日はここまで、それではご機嫌よう♪
            | 小鮒 | 史跡 | 06:03 | comments(0) | trackbacks(0) |
            三重町久田地区の片隅で
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              JUGEMテーマ:大分県豊後大野市
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              タイトルにもありますが三重町久田地区に生まれて初めて足を踏み入れました、why?と思ったあなた、良い質問ですねぇ(笑)

              実は県はもちろんですが、市の指定文化財が多数あるんです。でも土地勘が全くない場所に足を踏み入れることは、まさに冒険です。

              この日も「久田地区はこの辺りだから、この道路を入ったらどこに行くんだろう」みたいな感じで車を走らせました。
              「車を走らせた」っていうと広い道路のように思うかも知れませんが、実際は軽自動車1台分の幅しかない道がメインです(^-^;

              すると石幢を見つけました、いつの時代のものなのか全く不明ですし、県も市も指定していない石幢です。

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              以前「名なき宝塔」で指定を受ける条件を書きましたが、第一優先順位は「地域・地区からの推薦」です。

              では、この石幢は地域や地区からの推薦を受けないのか、結論は「受けることが出来ません」です。

              この石幢を撮影した後に、狭い一本道を進んでいきましたが集落がなくなっていました。
              道は一軒の家のところで行き止まり、そこに一世帯だけが住んでいるようです。
              その途中には数件の家がありましたが、全て廃屋状態でした。
              つまり集落からの推薦を受けようにも、集落そのものがないのですからどうしようもありません。
              ただ、隣保班としては広い範囲で構成されている可能性もあって、廃屋が多いからと言って隣保班が消滅していることはないはずです。

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              私的には、集落→隣保班→地域→地区というように考えて話をしていますのでご理解ください。
              集落=隣保班でもいいかなと思いますが、山間部に行くと必ずしもイコールではないような場所もあるように思えます。

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              さて、この石幢ですが、龕部は八角で六地蔵と十王2体を半丸彫りなのか半肉彫りなのか私にはわかりませんが、彫られています、
              何らかの信仰の象徴として建立されたのだと思います。

              今日はここまで、それではご機嫌よう♪
              | 小鮒 | 三重町 | 06:34 | comments(0) | trackbacks(0) |
              天然橋
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                JUGEMテーマ:大分県豊後大野市
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                久しぶりの「石橋」撮影です(笑)
                原尻橋以来でしょうか、どうも橋の撮影は苦手(他の被写体の撮影が得意というわけではありません)で、
                石橋を見てはカメラを取り出すのですが、いざ撮影となるといつも弱きになってやめてしまいます(=_=;)

                この天然橋ですが清川町の宇田枝地区と三玉地区に架かっている橋です、昭和60年8月上流に新しい橋が架かったため廃道となりました。
                その新しい橋から撮影しています。

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                天然橋の上流には「滝が!」と思い撮影したのですが、帰って調べてみると奥岳川の支流ではなく水路の水が落ちているようです(苦笑

                さて天然橋の話しに戻りましょう、架設記念碑によれば明治9年に木橋が架けられましたが、その後たびたび補修を要ししたため、
                上流に向かって右岸の牧口村佐草区と左岸の合川村宇田枝区で協議の上、大正9年10月に起工し、翌10年3月に竣工しており、
                工費は5772円で地元住民を中心に160名が5300余円を寄付したそうです。

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                石工は、棟梁が竹田町(当時)在住の山下嘉平で、清川村の界寿光・工籐子己、両氏の名前もあります。
                水面からの高さは14.7メートル、橋長・径間共に15mの石造アーチ橋です。

                いやらしい話ですが、当時の5700円って現在に換算すればどのくらいの金額になるんでしょうか(苦笑

                今日はここまで、それではご機嫌よう♪
                | 小鮒 | 清川町 | 05:55 | comments(0) | trackbacks(0) |
                代多層塔
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                  JUGEMテーマ:大分県豊後大野市



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                  「奥畑川」が流れる三重町奥畑地区にそれはあります、私が写真撮影を趣味として間もない頃に撮影しました。

                  当時は「こんな山奥にこんなものがあったよ」、という程度の紹介しかしていませんが(苦笑
                  今回は、どういうものなのかをご説明させていただきます。

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                  代多層塔と呼ばれている三重塔です、総高250cm。
                  笠は三層で基礎は三重で、層軸部は茶壷形で首部があります。
                  軸部に四方仏の種子を墨書した跡があって、基礎一面にも墨書銘があるが判読はできず、
                  室町時代の造立と推定されているそうです。

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                  このような史跡と地区には必ずと言っていいほど関わりがあって、地元では地蔵様と称し、歯の痛い時に炒った大豆を年齢の数だけと
                  塩を少々供えるとよくなるといわれていたそうです。

                  残念ながら現在では管理がされていないようで、ご覧のように草が伸び放題の中に「ポツン」と建っているのが現状です。

                  山間部に少し入ると、こんなところばかりの豊後大野市です。

                  今日はここまで、それではご機嫌よう♪
                  | 小鮒 | 史跡 | 06:18 | comments(0) | trackbacks(0) |
                  八方鳥居
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                    JUGEMテーマ:大分県豊後大野市
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                    以前から不思議に思っていた畑の真ん中にある鳥居、普通に考えれば以前に神社があった場所なのだろうと思います、実際に私はそう思っていました。

                    でも、その鳥居がなんのためにあるのか、ようやくわかりました。

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                    その昔、御嶽山の山頂「仙の嶽」信仰があったそうです。

                    その信仰のもとで建立された鳥居で、御嶽山の周囲八ヶ所にあります。
                    所在地と年代については、佃原(三玉)文政2年、五本松(平石)文政2年、大内(左右知)不明、中山(大白谷)明治25年、
                    犬鳴(伏野内平)明治13年、花立(伏野中津無礼)嘉永4年、拝迫(伏野)明和8年、鏡原(宇田枝)昭和11年の八ヶ所です。

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                    そして先程の鳥居から南へ300メートルほど移動すると、再び鳥居があります。
                    同じ方向を向いているので、先程の鳥居と同じ信仰のもとで建立されたものなのでしょう(詳しい資料がないので憶測ですが)。

                    御嶽山の山頂には「御嶽神社」があります。
                    この神社は宝徳元年(1449)に大友親隆によって勧請されたと伝えられています、その御幸には市内でも最多のお供がつくようです。
                    その社殿裏の岩場の上に仙人が座したと言われ、山岳信仰として崇められていたそうで、
                    これが「仙の嶽信仰」と言われるものらしいです。
                    また江戸時代には眺望がいいことから、岡藩五山の一つとして藩主の祈願所でもあったと言われています。
                    こんな信仰があったとは初耳です、いい勉強になりました(笑)
                       
                    今日はここまで、それではご機嫌よう♪
                    | 小鮒 | 清川町 | 05:52 | comments(0) | trackbacks(0) |
                    清川町轟で
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                      JUGEMテーマ:大分県豊後大野市
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                      清川町轟地区、この地区を訪れたのは何年ぶりでしょうか、道路は拡張され地区のイメージが変わっていました。

                      そして見つけた大師様や宝塔・五輪塔の数々、知らない間に移転されたようです。

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                      この碑文を読んで納得、度重なる公共工事の影響を受けて「あっちに移転」「こっちに移転」、そして最終的にこの場所に移転させたようです。

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                      ようやく落ち着ける場所が見つかったようです、ただここまで全て並べると展覧会のように見えてしまいます(苦笑

                      文化財としてどこからも指定されていない宝塔がありますが、私が見た宝塔の中で二ヶ所目となります。

                      そして、この日この場所での撮影が長時間になりました(^-^;

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                      その原因がこの方です(苦笑

                      私が撮影していると軽トラで通りかかって「いい写真が撮れたかえ」、と声をかけてくれたのですが私の返事を待たずどこかえ行ってしまいました。

                      それから10分くらい経ったでしょうか、再び登場した年齢的に大先輩のこの方。

                      花を供えながら話すこと話すこと(笑)
                      花きで儲けたことから始まって戦後の混乱の話、30分くらいは聞き入っていましたが、話が終わる気配がありません。

                      どこか途中で話が途切れたら帰ろうと思っていたのですが、話が途切れない(=_=;)

                      結局1時間くらい話しを聞いていても話し終わる気配がないので、「じゃあ私はそろそろ」といって帰ろうとしたらお土産をいただきました。

                      そのお土産は、朝とりたての桃です。
                      遠慮したのですが、「ここで会ったのも何かの縁じゃけん」と強く言われると遠慮するのも失礼かと思い、いただいて帰りました。

                      お土産をありがとうございました、この場をお借りして改めてお礼申し上げます。

                      ちなみに、これからは「おじいちゃん」を大先輩と呼ばせていただきます。
                      私自身が広く一般的に「おじいちゃん」の部類に入っているのに、「おじいちゃん」が「おじいちゃん」と呼ぶのは如何なものか、
                      そう思ったものですから(笑)

                      今日はここまで、それではご機嫌よう♪
                      | 小鮒 | 石の文化 | 05:31 | comments(0) | trackbacks(0) |
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