一昨日まで降った雨も昨日は降り止み夕方まで曇天でしたが、4時過ぎから少し太陽も顔を出してくれました。
暖かくはありませんでしたが寒くもなく、この時期を考えればありがたい気候でした(笑)
さて本日ご紹介する朝地町朝地にある文化財、どうしてもここだけは紹介したかったものです、なぜかと言いますと私のブログで市内の文化財を紹介する
きっかけとなった墓所だからです。
どうしてかと言いますと、この墓所に強い興味をもち、その強い興味が文化財全般へと広がっていったからです。
きっかけは昨年の5月頃だったでしょうか、資料館からいただいた冊子の中に紹介されていたこの墓所の厳かな雰囲気に惹かれ、
どうしても見たくて朝地町支所で尋ね探し回りました、雨が時々降る天気だったことを今でも覚えています。
でも支所で教えていただいた林道に出ることは出来たのですが、その林道のどこから山中に入るのか全くわからず、
帰宅する途中で資料館に立ち寄り墓所に行くまでの目印となる写真などをいただき場所を教えていただきました。
その時の写真の一枚に私が途方に暮れて休憩した場所がありました、その場所から山中に入ると墓所に辿り着くことがわかったんです。
資料館の方が「わかりづらいので目印をつけようと検討しているところです」、そのように仰ったのでしばらく待つことにしました。
それからは三重町内の文化財を紹介したりして現在に至り、年も変わったことから念願の墓所に行ってきました。
墓所へ行く途中には開墾された畑の跡が残っていました、資料館の方が目印の看板を立ててくれているので迷うことはありません。
ただ、迷うことはありませんが山の中腹にある墓所なので結構急な坂を上っていくことになります(苦笑
この案内板から並古という方は身分(地位)が高いからと言って農民を貶むのではなく、必要な改革がすめば次は農民と共に開墾に精を出す、
区別・差別が当たり前の当時としては珍しい部類の人間だったようです(現在でも少ないのですが)。
手前が並古、奥が子の並増の墓、その両方の墓に挟まれるようにしてあるのが亀趺碑です。
近地区の竹田市境に近い山中に建立された墓所で、石垣上に井上並古・並増親子の儒式墓二基とその間に亀趺碑一基、周囲には灯篭群がある。
被葬者の井上並古 (有淵)は岡藩主中川久貞に仕えた家老で、儒教に則り篤実な政務に功績があった人物で、久貞と同じ形式の墓石である。
亀趺碑には表、裏に並古の業績をたたえる顕彰文が刻み込まれ、表は唐世齋(唐橋君山)、裏面は石上嵩振(牧嵩振)による選文と記されている。
文政8(1825)年に、父と同じく一代家老となった並増により造営された墓所である。
このように解説されていますが、私には「亀趺碑」の意味がわからなかったので調べてみました。
亀趺(キフ)とは台石の一種で、石碑を載せる台石を大亀の形にしたものである。
亀趺は、もともと中国の貴族階級の風習だったのが、江戸時代に日本でも取り入れられた。
亀趺は功績や功徳などを刻んだ石碑を載せるものが多いが、鳥取藩主池田家の墓碑のように墓石を載せるものもある。
亀趺の亀は贔屓(ひいき)といい、龍の九子のうち龍になれなかった一子で、巨大な亀の形に似た想像上の霊獣だとされる。
「贔屓(ひいき)」は「贔屓にする」などと用いられる「贔屓」である。
贔屓は「一生懸命努力して力を出すさま」を意味するとされるが、それが「特別に便宜を図ったり、力添えをする」意味に
使われるようになった。
贔屓って意味が全く違っていたんですね、勉強になります(笑)
亀趺碑は、そもそも大名クラスの墓にあるものらしいのですが、並古の墓にあるっていうことがこの並古の偉大さを物語っているんですね。
とにかく印象に残る亀趺碑です、立派なものです。
表には唐橋君山の撰文が彫られていますが、唐橋君山とは、
1736−1800 江戸時代中期-後期の医師。
元文元年生まれ。高野蘭亭らに詩をまなぶ。天明4年(1784)豊後(ぶんご)(大分県)岡藩の侍医となる。
7年藩の医学館教授に任じられ,古医方(こいほう)のほか詩文などをおしえた。幕命により「豊後国志」を編集。
寛政12年11月8日死去。65歳。名は剛克。字(あざな)は美卿。通称は世済。
本業は医者だったようですが、文学にも秀でていた方のようです。
並古の墓所は想像していたとおり厳かな雰囲気があって綺麗でした、皆様にも是非一度見学して欲しい墓所です。
また資料館の方が目印の看板を立ててくれたことにこの場をお借りしまして感謝を申し上げます、本当にありがとうございました。
今日はここまで、それではご機嫌よう♪